労働とは何ぞや

労働とは

生きることと働くことは密接な関係があります。

人が生きるためにはお金が必要になります。そしてそのお金を得るための手段として主に用いられるのが働くことです。

つまり生きるためには働く必要があるということです。

しかし、働くことは容易ではありません。労働により数多くの方がストレスを抱え、健康に支障をきたし、自ら命を絶っている方も多くいます。

生きるために働くのに、自ら命を絶つ。労働とは一体何なのでしょうか。

大昔から生きるために労働していた

人間の歴史は労働の歴史でもあります。

まだまだ歴史と呼べるものがないような太古の時代においても、生きるために狩猟を行ったりコミュニティを運営するために活動したりという労働は発生していたものと考えられます。

18世紀から19世紀にかけてイギリスで起こった産業革命では蒸気機関の発明により人々の生活様式や社会が大きく変革しました。

20世紀以降に生じたIT革命ではインターネットの発達により社会システムが大きく変容を遂げました。

これらは全て労働様式の変革による革命ともいえます。

農業中心であった労働が工業中心へと変革し、手作業中心であった労働がコンピュータやシステムを使用した労働中心へと変革しました。

人類の歴史の中で、人々は常に労働し、社会に影響を与え、進歩を続けていたように思えます。

つまり、労働は社会を維持するために必要不可欠な活動であることは否定できません。

生きるために働く必要のない人もいる

サラリーマンの父で専業主婦の母という、昭和の時代にありふれた一般的な家庭に生まれた私にとって、生きるために働くということは極当たり前のことで、何の疑いも持たずに生きて来ました。

しかし、それは違ったのです。世の中には働かなくとも生きていける人たちがたくさんいたのです。

それは地主であったり、マンションのオーナーだったり、創業者の2代目3代目社長だったり、高齢者だったり、生活保護の方だったり様々です。

進学就職で少しずつ都会に出ていき、様々な人々と関わるようになり、少しずつ世の中の実態を知るにつれて、そのような現実を知ることとなりました。

社会とは、働いて支えている側と、支えてもらって搾取して生きている側に大きく分かれてしまっているのが現実です。

搾取というと言葉が悪いかもしれませんが、知れば知るほど、調べれば調べるほど、そのように感じざるを得ません。

自分が生きるために働いているにもかかわらず、自分の生活や時間、精神を犠牲にして、知らず知らずのうちに、他者が裕福になる手助けをしてしまっているのです。

年々上がり続ける税金や社会保険料、そして物価。自分の生活を優先的に快適にすることができない状況でそれらを払い続けなくてなならない現実に、搾取以外何と言うことができるのでしょうか。

働いたら負け

働いたら負け

以前このようなフレーズが脚光を浴びたことがあります。

当時はかなり批判を受け、発言者に対して「何言ってんだこいつは?」といった風潮だったように記憶しています。私も生きるために働くことは当然と考えていたので、同じような意見でした。

しかし時は流れ、現在まさに「働いたら負け」というような状況となっているのではないでしょうか。

税負担と社会保障負担の国民所得の占める割合である国民負担率は50%近くとなり、五公五民の時代が舞い戻って来ています。そして少子高齢化は止まることを知らず、まだまだ増税の議論が尽きることはありません。

このような時代に働き続けることが負けではないと誰が言えるのでしょうか。

おわりに

自分の仕事が自分の生きがいと同じという人は、働き続ければいいと思います。しかしそんな人は非常に幸運で、大多数は不本意ながら働いているのではないでしょうか。

生きるためには働く必要があるが、働けど働けどお上に搾取されるばかりで生活は一向に楽にはならぬ。いつの時代の話でしょうか。現在は21世紀で令和の時代ですよ。

願わくば、我々の子供孫の世代においては少しでも快適な生きやすい時代となっていることを望むばかりです。辛い思いをするのは自分たちだけで十分です。そのために自分が少しでも貢献できるよう、役に立てるような生き方ができないか、試行錯誤する日々です。