60~61日目_カンボジア内戦

1月に向日葵が咲いているのを観るのも不思議な感覚です。

ホーチミンからバスに乗ること約7時間。カンボジアの首都プノンペンに到着しました。
長距離バスに乗りまくったせいか、このくらいの移動時間はもう苦ではなくなりました。

プノンペンはホーチミン同様、この時期でもとても暑いです。
交通量も多いのですが、ベトナムほどクラクション鳴らしまくり、対向車線から追い越しまくりという感じではなく、落ち着いた感じです。
そして、高層ビルがいくつもあり、現在も発展中といった様子でした。

プノンペンの街並み
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バスターミナルからホテルまではトゥクトゥクで。ドライバーがいい人そうだったので、翌日の一日ガイドもお願いしてその日は就寝しました。



翌日はカンボジアの負の遺産でもある、トゥールスレン収容所、キリングフィールドへ向かいます。
そもそもこれらの場所が存在する理由をカンボジアの歴史とともに軽くまとめてみます。

第二次世界大戦の傷跡もなくなりつつあった1960~70年代。ベトナム戦争が世論を大きく騒がせておりました。
その影響もあってか、ポルポト率いるクメールルージュは共産勢力として勢力を拡大していき、1975年に首都プノンペンを制圧し、ポルポトは革命を達成した。
当初は長く続いていた内戦がようやく終わったこともあり、ポルポトはプノンペンの人々に歓迎されていたそうです。
しかしすぐにそれは幻想であったことがわかりました。

ポルポト率いるクメールルージュは原始共産主義という思想を掲げていました。
これは共産主義の中でも最も過激な部類で、端的に言うと階級・格差がない社会の実現を目指すものです。
聞こえは良いですが、実際は現代の文明に関係するもの、娯楽はもちろん、学校、病院、宗教、貨幣といったすべてのものは必要ないとして、ある意味原始時代への回帰を目指すような、過激な思想でした。
そして、過激な思想は過激な行動へと移されていきます。

ポルポトは、農民こと最も尊い存在であるべきとして、プノンペンの住人たちを農村部へ強制移住させ、農業へと強制労働させました。
当然農作業の知識も経験もない人々ばかりなので、農業は全くうまくいきません。
しかし人々は休みも食事も与えられず、ひたすら農作業を強制させられます。その結果多くの人々が飢えや病で死んでしまいました。

また、ポルポトは反乱の恐れがあるとして、教師、医者といった知識人を次々に処刑しました。
その対象はどんどん拡大していき、しまいには眼鏡をかけているだけで処刑されたりしたそうです。
その際に人々は激しい拷問を受け、ありもしない罪を認めさせられ処刑されていったそうです。
そのような人々が収容されていたのが、上述のトゥールスレン収容所、そしてキリングフィールドです。

上記のようなポルポトの独裁政権は約4年間続き、その間に殺された人数は200万人とも300万人ともいわれています。
最終的にベトナム軍が侵攻してきたため、ポルポトはタイ国境へ逃げ出し、政権の奪回を狙いつつもそのまま死んだそうです。
ポルポトから解放された際のベトナムの人口比は、なんと85%近くが14歳以下だったそうだので、想像を絶するとしか言えません。

当時はカンボジアは事実上の鎖国状態にあったので、世界各国はベトナム軍による侵攻が行われるまでカンボジアでこのような惨劇が起こっているとは全く知りませんでした。
また、カンボジアに侵攻したベトナムはベトナム戦争後の社会主義国家であり、アメリカとも敵対関係にあったため、当時のアメリカや日本も含めた資本主義国家たちはこのような事実があったことを中々認めようとしなかったという話もあります。

ほんの40年程前にこのような惨劇が起こったとは思えない程、現在のカンボジアは発展しており、のどかな自然に囲まれていますが、このような歴史を知った上で街中に目を向けてみると、また違った見方ができるかもしれません。

以上、簡単なカンボジアの近代史でした。


最初にトゥールスレン収容所に行きました。
この場所は、元々学校だったそうで、市街中心部からも近い場所にあります。
教室一つ一つが拷問部屋や収容施設になっていたそうで、当時のまま残されています。
拷問のために使用されたベッドや道具などもそのままあり、とても信じられるような光景ではありませんでした。
内部は写真も自由に撮ってよさそうでしたが、どうもそんな気分にもなれず、ここでもキリングフィールドでも結局全く写真は撮りませんでした。

外観は撮りました。
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続いてキリングフィールドへ。
こちらは、トゥールスレン収容所に収容されていた人々の叫び声が近隣に聞こえ不審がられるようになったため、郊外につくられた文字通り人々が殺されるための施設です。
もともと農場だったそうで、現在も緑が溢れ、野鳥が多く生息するのどかな場所となっていますが、この場所でも大勢の人々が殺されています。
中央に慰霊碑があるのですが、その中には犠牲者たちの頭蓋骨が17段に渡って積み重なっており圧巻でした。
あまりに現実離れしすぎているため、何があったのか全く想像することができませんでした。

犠牲者たちはすべて周りの地面に埋められており、その数が多すぎることと、この場所で起こったことを後世に伝えるため、全ての犠牲者を掘り起こしていないそうです。
そのため、雨が降った後などには現在でも犠牲者たちの衣服や骨が見つかるそうです。
実際に私が行った時も、木の根に引っかかっている衣服や、地表に人骨を思われる物体が表れている様を目撃し、とても衝撃を受けました。

こちらも外観は撮りました。
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そして最後に射撃場へ。実弾を撃ってきました。
実弾を撃つのは初めてだったのですが、撃ったときの衝撃がすごすぎて驚きました。
そして、当然ですが銃弾が全く見えない。これは人は死にますね。
私の姉がハワイで射撃を行ったときに衝撃が大きすぎて泣いてしまったそうなのですが、その気持ちが少しわかりました。
ちなみにこちらの射撃場は、手榴弾とかバズーカ砲なんかも撃てるそうです。
なんでもアリですね。

ライフルとかマシンガン?
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更に威力の強いマシンガン?
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戦闘機から落とす爆弾
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これらの場所に連れて行ってくれたトゥクトゥクドライバーのBorithさん。
いつもニコニコしてとてもいい人でした。
しかし、ポルポト政権下ではプノンペンから農村へ強制移住・強制労働させられ、
その後軍に入隊し、ポルポト軍と戦った経験があるという凄まじい過去の持ち主でした。
現在は奥さん、お子さん、犬と一緒に暮らしているそうで、子供の学費捻出が大変だと笑っていました。
こんなに壮絶な過去があるのに、今は笑顔でその原因となった場所へ観光客を案内して生計を立てている。そのたくましさに頭が下がります。
つくづく自分は甘々な環境で暮らしていたんだなと痛感するとともに、日本は平和なんだなと実感した一日でした。

いつもニコニコしていたBorithさん
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明日はシェムリアップへ向かいます。
いよいよ旅の終わりが近づいて来ました。


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